女性に門戸を閉ざしたパリ音楽院

女性の作曲能力に対する偏見については、様々な逸話が残っているが、パリ音楽院が女性(作曲家)に門戸を閉ざしていたことについて調べてみると、少々興味深い結果が得られた。(なお以下は概ねウィキペディアから引っ張ってきているので正確性はあまり期待しない方がよい)

 

ルイーズ・ファランク(Louise Farrenc 1804 - 1875):15歳のときパリ音楽院でアントニーン・レイハに作曲と音楽理論、楽器法を師事。パリ音楽院で女性として初めて教授職(ピアノ科)に就任した。しかし当初は補助職員並みの俸給しか得られなかったために、8年もの間、男性教授並みの給与を求めて闘い続け、教授として正式の認知を勝ちとった。⇒ピアノ科に入学

マリー・ジャエル(Marie Jaëll, 1846 - 1925)旧姓トラウトマン(Trautmann):1862年に公式にパリ音楽院に入学し、同年ピアノ科の首席に輝く。⇒ピアノ科に入学

オーギュスタ・オルメス(Augusta Mary Anne Holmès, 1847 - 1903):早期から楽才を示したにもかかわらず、当時はパリ音楽院に女性の入学が許可されていなかった。フランツ・リストに作品を見せて激励される。1876年からセザール・フランクに作曲を師事する。オルメスの自筆譜はパリ音楽院に遺贈された。⇒パリ音楽院には入学せず。

セシル・ルイーズ・ステファニー・シャミナード(Cécile Louise Stéphanie Chaminade, 1857 - 1944):当時のパリ音楽院の作曲科は女性に対して公式な入学許可を与えていなかった。⇒パリ音楽院には入学せず。

ラニー・ボニ(Mélanie Hélène Bonis, 1858 - 1937)女性音楽家への偏見から、中性的な名前のメル・ボニ(Mel. Bonis)を終生名乗って音楽活動する。パリ音楽院の教授であったセザール・フランクの手引きによりパリ音楽院に入学。1876年から1881年まで、作曲法をエルネスト・ギローに師事、伴奏法をオーギュスト・バジユに師事して優秀な成績を収め、学内では伴奏で二等、和声法で一等を受賞した。「芸術家同士の危険な結婚」を危惧する両親に阻まれ、ボニは卒業を目前に実家に引き戻される。⇒作曲クラスに入学するが、中退。

ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887 – 1979)10歳でパリ音楽院に入学し、オルガンをアレクサンドル・ギルマンとルイ・ヴィエルヌに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールガブリエル・フォーレに、伴奏法をポール・ヴィダルに師事した。⇒作曲クラスに入学、後にパリ音楽院でも教鞭をとることになった

ジェルメーヌ・タイユフェール(Germaine Tailleferre, 1892 - 1983)1912年パリ音楽院のピアノ科に入学

リリ・ブーランジェ(Marie-Juliette Olga Lili Boulanger, 1893 - 1918)⇒パリ音楽院に入学しローマ大賞音楽部門受賞

 

この経緯から、パリ音楽院の作曲クラスが、女性に門戸を開いたのは、1857生まれのシャミナードから、1858生まれのボニの間ということが伺える。(1876年頃)

 

なお、パリ音楽院は女性差別だけではなく、外国人差別もあったようで、ハンガリー出身のフランツ・リストFranz Liszt 1811 - 1886)は、1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)とのこと。