誰がために鐘は鳴る (ジョン・ダン)

"Never send to know for whom the bell tolls" (Meditation #17 By John Donne) 
(日本語訳:問うなかれ、誰がために弔いの鐘は鳴るやと (ジョン・ダン「瞑想録」17より)

 

二人の「ヘイノ」による「鐘」作品


フィンランドの作曲家、カスキ(Heino Kaski)と、エストニアの作曲家エッレル(Heino Eller)の鐘の音をテーマにした作品をとりあげる。

 

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カスキ「古い時計台」、エッレル「プレリュード」、「鐘」 

 

カスキとエッレルが過ごした時代


これら二人の作曲家の母国の言葉、フィンランド語とエストニア語は同じバルト・フィン諸語に属する、近親言語だとのことだ。二人の名前(Given Name)がともに「ヘイノ」"Heino"と一致しているのは、偶然だとは言え、互いの母語などの文化背景の共通性に通じている。さらに、この2人の生まれ育った地域の時代性、社会状況も共通するものがあり、それがこの2人の作品に影響している。

 

カスキは1885年6月21日生まれ、エッレルは1887年3月7日生まれで、ほぼ同時期に生まれている。カスキの生まれたフィンランドも、エッレルが生まれたエストニアも、この頃ロシアの実質支配下にあった。

 

1917年ロシア革命が勃発し1922年に社会主義国ソビエト連邦に変貌した。一方、フィンランドエストニアは、ロシア革命の混乱の2~3年後に独立して共和国となる。ソビエト連邦では政権を掌握した無神論政党ボリシェヴィキが、宗教を否定し、1930年代まで激しい宗教弾圧をおこなった1921年から1923年だけでも1万人近い聖職者が処刑され、聖堂や修道院が閉鎖され、鐘は楼から降ろされ鋳つぶされた。(エッレルは1920年までサンクトペテルブルクに居たので、恐らくこの教会弾圧を目の当りにしていると思われる)

 

そうしたソビエト連邦の宗教弾圧や表現規制を間近に見ながら、カスキは1926年ごろ「古い時計台」(Das alte Glockentürmchen)を 作曲し、エッレルは1929年に「鐘」Kellad (Die Glocken)を作曲した。その鐘の音が母国に鳴り響き続けることへの祈念がこれらの曲には籠っているのではなかろうか。

 

その後、1940年、フィンランドはカレリア地方の大半(カスキが通った学校の地域も含まれる)をソ連に奪われ、エストニアは全土をソ連に占領されてしまう。なお、彼らの曲のモデルとなった鐘(と推測されるもの)は、鋳つぶされることもなく、今なおその音を聴くことができる。

カスキが聴いた鐘

カスキの父は、教会のオルガニストだったことが知られており、恐らく彼の父がオルガンを弾いた生まれ故郷の教会の鐘の音をモデルにして作曲したものと推測される。カスキの出生地はピエリスヤルヴィ(Pielisjärvi)という地で、カスキを研究し世界に知らしめた舘野泉は、1980年代に、その地名がフィンランド地図に無いことから1940年にソ連に占領されたカレリア共和国のどこかではないかと推測しているが、ピエリスヤルヴィは1973年にリエスカ(Lieksa)という地域と統合、吸収されていただけであった。

 

旧ピエリスヤルヴィ地域に、1880年台には存在し、その当時からオルガンと時計台(鐘楼)がある教会というのを一カ所だけ発見できた。それは、リエスカ教会("Lieksan kirkkoW、旧名"Pielisjarven kirkko")と言う名のルーテル教会プロテスタント系教会)である。

 

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Lieksa_bell_tower.jpg

エスカ教会の鐘楼(Wikipediaより)

 

教会堂は火災により建て替えられているが、50mほど離れた裏手にある鐘楼は、1836年に建てられてから変わっておらず、ロシアのサンクトペテルブルクから取り出された2つの鐘が購入され、取り付けられている。

 

カスキの「古い時計台」のモデルとなった鐘の音を聴くことができる。

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エッレルが聴いた鐘


一方、エッレルの「鐘」のモデルとなった教会とその鐘のことは、よく知られており、エッレルが帰国して暮らしたタルトゥにある、タルトゥセントポール教会(Tartu Pauluse kirik)という名のルーテル教会である。

 

タルトゥ セントポール教会の鐘楼

 

セントポール教会の鐘はドイツのボーフムで鋳造され、1923年に設置されている。1944年に戦争で教会が焼かれ、鐘が塔から墜ちたとのことだが、1946年には修復されている(Kellad — SA Pauluse Kirik)。この2つの鐘の音高はGesとEsにチューニングされており、このGesとEsの音がエッレルの「鐘」の動機の主要音となっている。

 

エッレルの「鐘」のモデルとなった、セントポール教会の鐘の音も聴くことができる。

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ラフマニノフの「鐘」

 

なお、「鐘」と言えば、ラフマニノフのプレリュード Op.3-2 嬰ハ短調が思い出されるが、ラフマニノフの「鐘」にはカスキとエッレルらの「鐘」との若干の違いがある。

 

ラフマニノフの「鐘」は1892年に書かれていて、作曲の社会的背景について「鐘」が鋳つぶされる教会弾圧と無縁であったことが異なる点の一つであるが、カスキやエッレルのモデルとなった「鐘」はルーテル教会の「鐘」であるが、ラフマニノフがモデルにしたのはロシア正教の「鐘」であったという大きな違いがる。

 

ルーテル教会の(当時の)鐘は、原則として大きな鐘が1つか2つであり、その鐘自体を振って鳴らす。一方ロシア正教の鐘は、多数の鐘(7つ一組という説明がなされているドキュメントもある)であり、その舌の部分にロープをつけて舌を振り動かして鐘の内面に当てて鳴らす。そのことから、カスキやエッレルが想念していただろう鐘の音と、ラフマニノフが愛した鐘の音は全く違うはずである。

 

ラフマニノフが聴いた鐘が何処の教会のものかは明らかではないが、(ラフマニノフがいた)モスクワのロシア教会の鐘の例として、救世主ハリストス大聖堂(1931年にソ連当局によって爆破されており、現在の建築物は1990年代に再建)を聴いてみると良いだろう。

 

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鐘は鳴る 

"Never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee."

敢へて問ふに及ばぬ、誰がために弔いの鐘は鳴るやと。鐘は汝がために鳴るなり。